それは気紛れに街を歩いていた時だった。
街の歩道を歩いてるの誰もが、同じく歩いてる人々を意識していない。意識していたとしてもそれは人としてではなく動く障害物としてだ。
流れていく障害物達。その流れの一つに俺はいた。俺も流れに流れてあるいは流されていく。
障害物達が人としての意識を取り戻すとしたら、それは己の名を呼ばれた時だろう。しかし俺には名はない。あってもそれは俺自身が付けた仮面であり俺自身を引き起こす力はない。
名も分からぬ流れに乗りながら俺はいつもの路地へと流れ込んだ。誰もそれを気に留める奴はいなかった。ただ一つの気配を除いては。
いつもの場所。人工的に作られた物の中に偶然生まれ、そして俺が見つけるまで誰にも気付かれずいただろう存在、名も無き空間。それが俺のお気に入りの場所だった。
「……ここまで付いてきたってことは、俺に何か用?」
振り向かず、何もない場所に言葉を吐き捨てた。
何もないわけではない。確かにそこには何か在る気配がした。
「あれ? バレちゃった? 流石だねって言えばいいのかな」
何もないはずの場所から声がし、その声が聞こえる場所に突如宙に浮かぶ三日月のようなものが現れた。俺にはそれがなんかのか心当たりがあった。
「なんだっけ、アンタ。確かバンドやってる――」
「スマイルだよ」
三日月は名乗ると途端にその姿を現した。そう、確かこいつは透明人間とかいう妖怪だかなんかだった。
「で、なんの用?」
「用って程のことはないよ。ただ、ジャックに興味があって、君にも興味があるだけ」
ヒヒヒッと奴はまた口を三日月にした。
「またなんで俺なんかに?」
正直その笑い方が気に食わない。ポップンパーティ参加者じゃなければ殺したくなるほどに。
奴は三日月笑いをやめると今度はニコッと微笑んだ。
「君の場合はそうだね……無を望んでるところとか、名前を付けられるのが嫌なところとか、すっごく気になるね」
「……アンタ、実は結構覗き魔だろ」
「覗いてないよ。聞き耳立ててるだけ」
わざとなのか目を塞ぐような仕草をし、ニコニコしやがるもんだから余計に腹が立った。
でも、俺もコイツには少しばかり興味があった。
「アンタ、本当に透明人間なんだな」
「まあねぇー。でも……」
奴は何か面白いことでもあるかのようにコートを翻しながらくるりと一回転した。
「君が羨ましがる存在ではないよ」
しまいには何か――リズム的になんとかZとかいうやつの歌だろう――歌いながら踊りだした。
「なんでだよ?」
「何故なら、ボクら透明人間は名前があることが必須条件だからだよ」
また面白そうに笑う。だから俺も笑い返した。
「何それ?」
「ボクらは名前が無かったら最初から生きちゃいない。名前と共に生まれ、そしてその名前に反応できなくなった時こそが死……本当の無に還るんだ。
だから、君のように名前が無い子は透明人間になろうと思っちゃいけないよ。なったらたちまち死んじゃう」
奴は踊りをやめてもう一度三日月笑いを浮かべると、そのままくるりと背を向けた。
「君は、まだ死にたくない。そうでしょ?」
そう言って奴はスゥと闇に紛れて姿を消した。
次第に気配が遠ざかっていくのを感じたが、あえて追わなかった。
「……言ってくれるぜ」
理由はなんだか分からないが、酷くむしゃくしゃして思わず転がってるゴミを蹴飛ばした。